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ああ本が書きたいという気分になってきた

(写真は2020年の私たちの会社とNPOの活動)

 

2020年2月頃から新型コロナウイルスが世界中を混乱させ、今まで想像しなかった事態になりました。

 

日本での「ステイホーム」は他国のように外出に罰則がつくわけではないので、精神的な苦しさはそこまでありません。

 

一時的に経営している会社「日本ミャンマー支援機構株式会社」や運営している「NPOリンクトゥミャンマー」のスタッフが通勤できなくなりました。しかしスタッフが「自宅勤務より通勤したい」と強く望むので、緊急事態宣言後は通勤してもらうことにしました。

 

「スタッフがそんなに職場で仕事をしたいなんて……私が会社員のときは、意見の合わない上司に会いに行くという通勤なんか、まったく興味なかった……」という、新たな発見がありました。

 

(彼女たちは単に、自宅にこもっているより、働くという外出の口実が欲しいのかもしれませんが)自分が抱いている「スタッフの気持ち」という想像なんて、たかが知れている、やはり人は様々な感情や感想をいだいているから面白いのだと、感じました。皆が昔の私のように、心の中で不良な考えを持つ会社員であるわけではないのです。私のように、会社に「(この会社の発行する雑誌の)取材に行ってきます」と言いながら、自分のフリーランスで名を上げるための記事の取材をしていたわけではないのです。

 

緊急事態宣言下でも、日本では食料を買うために外出できますし、夕方人が少ない公園で、家族でサッカーもできます。そのサッカーで娘と衝突し、手の靭帯を損傷したりしました。

 

子どもたちは学校に登校しなくなった時期があり、その時は家庭内で勉強させて、子どもが言うことを聞かないのでキレ、学校の教職員が毎日感じているであろう忍耐に思いをはせました。先生方は、我が子らによく耐えてくださっている……。

 

教育。これは今年の私のテーマかもしれません。そのテーマはまた後に語ります。

 

 

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コロナ禍で気づかされたことがもう一つあります。

 

起業してこの8年間、もっとまじめに、会社を経営してくるべきだったということです。

 

役人の家庭で育った私には、自営業というイメージがあまりなく、会社経営とはどういうものか、全然分からないまま会社を設立しました。その時はフリーでライターの仕事があったのと、夫が日緬間貿易を個人事業としてやっていたので、会社という組織があった方が便利だろうという程度の意識で、約8年前、三菱UFJ銀行に口座を作りに行きました。

 

当時、私は記事を掲載してくれている雑誌や、ゴーストライターとして執筆した本を銀行にたくさん持参して、超簡易的な会社ウェブサイトを作って、銀行窓口の女性に見せました。窓口の女性は、当社の実績というより、どこの馬の骨とも分からない東南アジア人と結婚した日本人女性に同情したというか、「独立なんて、女性一人でよくやるわ」という応援の気持ちがあったように見えました。

 

こんな財産ほぼゼロの会社に対して、よく法人口座を作ってくれたものです。なにせ、資本金は2円、財産ほぼゼロでしたから。

 

その時期が法人口座を作りやすかったのかもしれません。それでも、法人口座を作ってくれたその銀行担当者に、当時も強く感謝しましたし、今でも感謝しています。

 

この資本金2円設立は、後々私たちの会社の成長を阻む要因になりました。対外的に資本金はある程度あった方が良いと、経営しながら気が付きました。有料職業紹介業の許認可を取るのにも、増資や会計処理など、時間と経費がかかりました。増資の際に税理士と大喧嘩をしたり、業者としての当社をなめきっている客からありもしないクレームで補償を求められ、クレーム対応で売上金が吹っ飛んだり、資本金2円会社設立は、私たちの会社にとって非常に良い教訓になりました。「自分が体裁を気にしなくても、他人は体裁を気にするのだ」ということです。

 

さらに、「会社経営は執筆の片手間で」という意識が、設立して数年間はありました。2016年に「ミャンマーに学ぶ海外ビジネス40のルール」という本を出版し、本を出したいという長年の夢が叶ったために、「あれ、その後の夢ってなんだっけ?」という気分になりました。

 

大学生の頃に執筆を仕事にすることを志し、そのために中小広告代理店や出版社で安月給に甘んじて、毎週ライタースクールに通って、そこのライタースクールでライターとしてデビューすることを仲間たちと夢見て20代を過ごしていました。つまり起業する前の自分は、書くこと以外の社会の動きには疎い人間でした。

 

取材対象や権力者の動き方は分かりますが、日本に沢山存在している中小企業という、外側からは平凡に見えて、でも中では、自社の生存競争のために死に物狂いで経営している人がいる実態を何も知らずにいました。興味ゼロでしたし、よく分かっていなかったのです。

 

これまでは、何となく自分たちが稼げて、スタッフを雇える状態であるなら、経営に関しては、今のままの意識でいいと思っていた部分があったと思います。

 

その意識が変わってきたのは、有料職業紹介業を始めてからでしょうか。就職を決めたミャンマーの人々が、その方々の家庭が、豊かになるのを見て、「もっと就職の機会をたくさん作らねばならない」と思うようになりました。世界は貧困格差という不平等があり、ミャンマー・ヤンゴンの夫の実家がある周りでも、その不平等解消に力を尽くせない自分でいるままではいけないと感じるようになったのはあります。

 

1年前までは、一人のミャンマー人の就職を当社で紹介すると、その周囲の10人が芋づる式に当社にやってきて、就職先を求めていました。外国人への職業紹介は、彼ら・彼女らの就労ビザ申請の成功と内定というセットで提供しなければなりません。日本で働くためのビザは、発展途上国から来ているミャンマー人にとって命と同義です。

 

彼らに就労ビザがあれば、日本で稼ぎ続けることができて、発展途上国にいる彼らの家族が今より豊かに過ごすことができるようになります。多数あるビザを出せない職業紹介業者と、ビザを出せる職業紹介業者が混在する外国人社会で、当社に来る求職者は、ほとんどが当社のビザ・仕事紹介の実績を知る人達でした。彼らは自分の命を預けに、当社に来ているも同然でした。

 

「お姉さん(私)に任せて、良かったです」と言って、就労ビザの出た在留カードを見て泣くミャンマー人男性もいました。

 

もちろん綺麗ごとばかりでなく、当社を利用して、去っていく外国人もたくさんいます。中途半端なクレームをつける人もいます。ですから、

「99%、ビザが出る条件下でのみ、あなたの就職紹介をします。残りの1%は、入管が決めること」と自信を持って言うサービスを提供していますし、実際にそう求職者に伝えます。

 

そして、1円でも多く稼げる仕事を探すために、複数の職業紹介会社を行き来する求職者をつなぎとめるため、「頭を走らせる」ようになりました。ミャンマー語の「ガウンマピェブ」(頭が走っていない=人間の機微に疎いことや、物事の先読みができないこと)を日本語に直訳して、夫が良く私を叱責する言葉です。夫いわく、発展途上国の人間は、生存のために手段を選ばない。だから彼らの先の先の先の先を読んで行動しなければならないという意味です。

 

「先進国に生まれた日本人(私)には想像できないことを、彼らは常に想像しているということを、頭に入れるべきだ」

と夫はいつも言います。大勢のミャンマー人に会って、仕事を紹介することで、私は鍛えられたのです。

 

会社を経営するようになって、たくさんの、多様な中小企業の経営者に会いました。中小企業こそが当社にとって最大のお客様です。大手商社やら大手保険会社やら、大手企業からの依頼もありますが、当社にとっては中小企業のお客様こそが、最も大事なお客様です。人材や資金に恵まれなくても、経営しなければならない組織を持っている方々です。

 

昔ヤンチャだったに違いない見た目だったり、限界集落でミャンマー人を雇っていたり、80代なのに後継者の息子を押しのけて経営していたり、ワンマン経営者の先輩(父)についていくために青息吐息の二代目だったり、いわゆる座学の勉強はできなかったかもしれないが、実地で猛烈に仕事をして経営者になったであろう方だったり、いろんな経営者の方々がいます。

 

 

中小企業の経営者はオーナー社長が多く、雇われ社長は少ないです。つまり逃げられない状況下で、利益を出し、社員を養うという命題があります。お客様の社長からゴルフはやらないのかとか、よもやま話を聞きながら、彼らの苦悩を感じ取ります。経営にはいろいろな問題がつきものです。すべての経営者の方々から、様々な話を聞き、会社経営とはどういうものか、少しずつ教わりました。

 

 

2019年に、二人の経営者に会いました。一人は、世界中で工場を経営する方で、在日本ミャンマー大使館から当社を紹介されて、連絡をしてきました。その方には、会社の人材を多国籍化したいという希望がありました。

 

もう一人の経営者は、ミャンマーに製造拠点を作りたいという希望がありました。長年東南アジアの製造拠点を探していて、なぜか当社にたどり着いた方でした。

 

このお二人から感じ取ったことは、自分が片手間なんかで会社を経営していてはいけない、ということです。自分よりはるかに経験も実績もある方々が、ミャンマーで成功するために当社に期待をしているのですから。

 

 

会社経営に対して意識が変わっていく一方で、外国人人材に関する本を執筆することになりました。長年感じていたことを、どのように本の中に昇華していくかを考え文章化し、出版社の方と相談して、2020年初めに発売する予定でした。しかしコロナの影響で、出版の時期は延期になりました。

 

新型コロナウイルスが発生したことで、海外視察ができなくなり、外国人人材の入国が制限され、当社の収益源が大きく変わりました。そんな時に、新しく事務所になりそうな物件が見つかったのです。

 

不動産仲介会社と売主は、その物件を売る気マンマンです。しかし、物件のあるマンションの管理組合が、当社の活動に難癖をつけてきました。いわく「外国人が不特定多数出入りする事業なんて、物件をまた貸しされて、誰が住んでいるか分からない状況になる」そうです。

 

「久々に日本での東南アジア人企業への差別キター」と思いました。こういう外国人差別は結婚して9年、すでに慣れていて、これまでは日本社会の潜在的な差別意識やら、実際の差別やらは、会社を経営しながら雇用を生み、税金を納め、実績を出して吹き飛ばしたり無視したりしてきたのですが。

 

「うちは法令にのっとって外国人研修したり、その研修員が滞在したりしますが、夜のパーティーや酒飲んだりしませんから。また貸しは店子にしないようにマネージできますけど」

 

不動産仲介会社にこう言うと、売りたいだけの不動産仲介会社の営業は、

「分かりますよ。ホントですよ! 誰が買ったっていいんだってえの! 法人が購入するのは良くないとか言って……」

とぶんむくれ状態で、結局その管理組合の担当者に詳細な説明をすることになり、私も同席するかもしれないという話になりました。

 

久々に……と思いながら、やはり少し落ち込むものです。

 

しかし、もしこの物件を購入するなら、金策、金策が必要です。

 

日ごろ営業に来る、近所の信用金庫の営業マンは、とにかく若く、なんでも「これから」の人材で、毎回面談に遅刻してくるので、私は彼に会うのがだんだんおっくうになっていました。「自分の人生も全財産もかけていないサラリーマンの若造に、経営の、経営者の何が分かるんだ」というのが私の本音です。

 

そこで、別の信用金庫に行って、とりあえず法人口座を作ろうと思い立ちました。これも近所に支店があるので、ふらっと行って「法人口座を作りたいんですけど」と言うと、相談窓口に案内され、50代の担当者が出てきました。

 

「最近は法人口座を作るのもいろいろうるさくてね。一度事業実態を確認しに、事務所に行きますから」

 

「分かりました。事務所に来ていただければ、決算書を見せます」

 

 

翌日、その信用金庫の担当者は時間通りにやってきて、当社の事務所でスタッフが働いている姿を見、当社の決算書をじっくり読みました。辺境の地を専門にするコンサル会社の決算書の額は、そこまで大きいわけではありません。それでも彼は言いました。

 

「この業態で、ここまで事業を大きくするの、大変だったでしょうね」

 

「……」

 

私は絶句しました。私の気持ちを、これまでの道のりを、当社の決算書を見て、彼が理解したからです。これまで、そのように私たちを表現する人はいませんでした。「どこの所属か分からない、ヘンな人」という扱いが、大方の日本社会で起業する人への評価です。

 

これから客になる人間への、ただのリップサービスだったのかもしれません。でも、私はこれまで経営してきた8年間と半年が、報われた気になりました。「理解する人が、こんな所にいた」という驚きがありました。心の中の私が泣きました。そして、私たちは孤独だったんだと気づきました。零細企業を立ち上げた経営者と言う存在への理解者がいない孤独、努力が評価されないのが当然という孤独です。

 

「被差別とも言える東南アジア人が、多文化共生の環境が整っていない日本で起業してどこまで行きつけるか、見てみたい」

 

そんな気持ちで会社を動かしてきましたが、意気込みだけがあっても、マンションも売ってもらえないかもなんて状況になると、さすがにへこむのです。

 

それとは裏腹に、法人口座ができた件の信用金庫の支店に、夫が通帳を取りに行くと、夫の背後で人がずっと待機していました。「誰だ?」と思っていると、「支店長です」と名刺を出してきたとのこと。

 

いいことも悪いことも、一度にいろいろやってきます。

 

コロナ禍に見舞われ、経営者として当然の「銀行とのつきあい」や「事務所拡大」「常にもっと利幅のあるサービス提供を考える」といったことを、これまでやっておくべきだと気づきました。今からでも遅くないと思って、始めています。

 

ああ本が書きたい。

 

外国人と日本人がうまくやっていくという課題をどう克服するか、どう克服できるか、そんなことを、これまで出会った経営者の方々の言葉をちりばめて、書いていきたいです。「日本社会の多様性の受容と、日本人の海外進出が、これからの日本社会の発展の鍵であるから、それを助ける場所を作り、人材を育て、多様性受容と海外進出を助ける本を出し続けるのが、自分の役割ではないか」と、自分の人生の目的がだんだん形になってきたように感じています。

 

今でも、私の仕事のスタイルは、毎週月曜日発行で、水曜日に締め切りがある週刊誌の出版社で叩き込まれたものが多く残っています。営業は広告代理店で広告を作りながら覚えました。

 

そして、9年前に入籍するとき、日本の区役所で「審査が必要」という難民との結婚という事態で、孤独で無力だった自分が、日本ミャンマー支援機構という会社の原点であるように思えます。

 

 

9年前のあの地点から、ずいぶん長く、思いがけない道を歩いてきました。まだまだ歩きます。時には走るかもしれません。本を出しながら、全力で会社を発展させていきたいです。会社の発展は、「ミャンマーでナンバーワンの経営者になるという」夫の本望であり、彼が日本にいる意味です。「糟糠の妻」という日本社会やNHKが好きな妻像は全く好きではないですが、社長である夫をサポートし、多くの仲間を作ってともに働き、人材紹介のような、多くの人を助けるサービスを提供しつづけていきたい。そういう会社を作っていきたいと強く思っています。

 

(2020年9月27日 みやま さえこ)